4 境界
「息子さんが、いらっしゃるんですか?」
問いかけに対し、眼鏡の男性——エドガー・キャンベル博士は静かに頷いた。
「うん。君にも言ったことがなかったね」
40歳前後の、細身の紳士だ。答える声は優しいが、表情は硬く神経質そうな印象があった。
静かな夜だ。落ち着いた色でまとめられた書斎。低いテーブルを挟んで、エドガーともうひとり、同じ年頃の男がソファに座っている。紅茶が品の良いティーカップに入れられ、柔らかい香りが漂っていた。エドガーの
「エディンバラに残してきたよ。今年で13歳になる」
「そんな……、キャンベル博士」
子供の幼さにはっとした男が、顔を上げた。
「貴方はこの5年間、一度も
男の言葉を受け、エドガーはわずかばかり目を伏せる。
「そうだね。君は優しいから、僕の話に心を痛める……。では、魚や虫を殺すとき、同じようには胸が痛まないのはなぜだろうか?」
「…………?」
エドガーが急に哲学的な問答のようなこと言い出した意図がわからず、男は黙って次の言葉を待った。
「彼らに表情や声が無いからだろうか? 僕らに羽や尾が無いからだろうか? ひとつひとつの違いを挙げていけばキリが無いが……問題の根幹は、それらの違いが原因で、人間が彼らの心の在り方を想像できないことにある。
自分が何者か。どこまでが、自分と同じ仲間と言える生き物か。これらの認識は、痛みの想像力に深く関わっているんだよ」
エドガーは立ち上がり、壁の本棚へと向かった。細い手が並んだ背表紙をなぞり、ある一冊を取り出す。中ほどのページを開いた本が、男に差し出された。男は牙の紋章が描かれたページを眺めながら、エドガーの声に耳をそば立てた。
「その昔、竜を所有する家では子供を幼い頃から竜に慣れさせていた。子供が竜を恐れて、エサだと思われるのを防ぐためだ。しかし、そうして育てられた子供は、人間への共感能力を著しく欠く場合がある。17世紀ハンガリーの貴族、バートリ・エルジェーベトの事件がその際立った例だ。
バートリ家は竜の伝説を持つ家で、時代が下ってからは、実際に竜を従えるようになった。中世の昔といえど、エサとなるのは罪人や異教徒たちのはずだった。しかし、バートリ家の娘エルジェーベトは、年若い少女たちを攫ってきては竜の檻へ引き入れた……そうして間近で、流れる血や苦悶の表情を楽しんだらしい。犠牲者は竜に本来必要な数を大幅に超え、実に、数百人の血肉が食べ残された」
圧倒的な数字に、男は息を呑む。竜が言葉を話すのに必要な人間は年間3、4人。竜の間引きによってその数が安定したのは近世以降とはいえ、それ以前でも10人を超えることはまず無いだろう。生きるためではなく、楽しみのためだけに積み上げられた夥しい死体たち——耳の奥に、断末魔が聞こえる気さえした。
「竜の捕食を目にするのは、本能的な危機と直面する行為。まともな人間にとっては、相当な負担になるはずだ。
だが、捕食する側を『自分と同じ生き物』だと思っているならば、エサの痛みなどわかるはずもない。人間の血にも悲鳴にも、恐怖や嫌悪を感じることができない。自分の心を守るため当然といえば当然の変化だが……これを果たして、『人の心』と呼べるかね」
しん、と部屋が静まり返った。男は、声の出し方を忘れたように黙っている。
他人が指先を切るのを見ただけで、普通の人間は身がすくむ。エドガーが言ったような『症状』が起こりうることなのか、にわかには信じがたかった。
人間が喰われる場面を見ても、何も感じないとしたら。虫や魚を殺すときのように、体のどこも痛まないとしたら。そんな人間は、身の危険を察知する能力に欠けていると言うほかない。次の瞬間に自分も竜に喰われることが無いと、頭で分かっていても普通は身体が警鐘を鳴らすだろう。
ありえない。バートリ家の例を出された直後でなければ、そう口に出していたところだった。
「……息子が、似た状態にあるということに気づいた時にはもう、お互いに懐きすぎていた」
「! 似た状態……って……」
男は、ぎょっとして顔を上げる。彼の視線から逃げるように、エドガーは俯いた。
「多くの時間を竜と過ごしすぎた……いや、僕と過ごす時間が短かったのか……」
深い、悲しみ。そして悔恨。
エドガーの声に初めて感情が滲み、男はようやく彼が今まで押し殺していたものに気がついた。告解のように、エドガーは続ける。
「息子は、早くに母親を亡くしてから『アカデミア』にべったりでね。目を離すと勝手に竜舎に入るものだから、僕も使用人も手を焼いたよ」
その時点ではきっと、幼子と竜の懐いている様子は微笑ましい光景だったのだろう。一瞬だけ、彼の口調に懐かしげな優しい響きが混ざる。
「それでも、人間の捕食には関わらせないよう育てていたのに……僕は、どこかで間違えたらしい」
男は、かけるべき言葉を見つけられなかった。誰かの非があって起こることなのか、これから取り返しのつくものなのか、何もわからない。少なくとも、竜とともに過ごしたというだけではそんなことは起こらないはずだ。
「人を傷つける前に竜と息子を離したい。……そう考えていたとき、手紙を受け取った。竜に関する法律を見直すため、合衆国が専門家を探している、と。だから僕はこの国に来たんだよ。息子がアカデミアを追ってこれない場所で、人と、竜との関わり方を考えるために」
そう言って、エドガーは再び男と目を合わせた。
遠く海を隔てた土地、それもろくに知り合いもいない国。『アカデミア』を連れてきて竜舎を整えるにしても、莫大な手間と費用がかかったはずだ。息子のことが彼に移住を決断させたのだと、ようやく話が繋がる。
「貴方が…… 招
「うん。息子をどこか遠くにやるよりは、生まれ育った土地に残した方が友達もできる……そう、思っていたんだ。だが——」
エドガーはテーブルの上を見つめた。手をつけないままの紅茶は、すっかり冷めてしまっている。
「もう、5年だ……。今もずっと、塞ぎ込んだままらしい」
沈痛な面持ちと声色から、年月の長さと重さが伝わってくるようだった。
8歳からの、5年間。同じ年頃の少年たちが多くの経験をして、のびやかに成長している時だろう。そのあいだずっと変われないでいる子供の報せを、エドガーはどんな気持ちで受け取っていたのだろうか。
彼自身、何かしてやりたかったに違いない。それでも一度、この国にアカデミアを連れてきたからには、エドガーはほんのいっときでも竜を置いて行くことはできない。アカデミアは調教師の制御が必要な竜で、発話器を持たない彼女は博士ただひとりしか言葉を交わせる相手がいないのだ。
「もし、これから…一生、人と心を分かち合えないとしたら……それはどんな孤独だろう」
エドガーの組んだ手に力が入る。痩せた関節が、白く浮き出て見えた。
「僕は……また、間違えて——」
「キャンベル博士」
男が、名を呼んで遮った。
「私は……貴方が竜科学者で、この国に来てくれて、よかったです……!」
エドガーが顔をあげる。戸惑いに揺れた瞳を、男の黒い瞳がまっすぐに見つめた。
「私は竜の事故で多くを失い、竜を殺すだけの亡霊になっていました。それを、貴方が暗闇から救い出してくれた。未来へ続く道へと導いてくれたんです。博士の力がなければ、新しい竜管理法はできなかった」
男の声に熱がこもる。ひとつひとつ、何か言い続けなければエドガーがどこかへ行ってしまうとでもいうように、言葉を伝えていく。
「安全のために、正しく手を尽くす方法。責任の所在や処罰の程度。これらが定められたことで、多くの竜と人が救われる。測れない命と罪の重さを問い続ける苦しみが、どれだけ軽くなるか……」
身勝手な、問題のすり替えだとはわかっていた。こんな言葉でエドガーの気が楽になるわけではない、ましてや息子のことは解決しない。それでも。
怪物と同じになった心さえ心配する優しいこの人が、エドガー自身を責め続けるのを、どうしても止めてやらねばならなかった。
「息子さんは……今は、信じるしか……。でも、いつか人に心を開いた時にわかってくれるはずです。貴方の、選択の意味を」
そこまで言うと男は口を閉じ、縋るような視線でエドガーを見つめながら一度、頷いた。黙って聞いていたエドガーは、目を細めて眉間に皺を寄せる。
「……そう、かな」
か細く、呟くような声。
——そんなことは起こらない。
そう、言いたいのかもしれなかった。エドガーが男の言葉をどこまで受け取ったのか、窺い知ることはできない。しかし、それでもエドガーは、感謝の言葉を口にした。
「ありがとう、ガーフィールドくん……」
————10年後。
1890年 ボストン
竜管理局 ニューイングランド支部
「ガーフィールドさーん!」
ノックの音とともに名前を呼ばれ、ジョージ・ガーフィールド管理官は書類から目をあげた。黒髪に、背筋の伸びた長身。50歳を過ぎた彼の顔には、深い皺が刻まれている。彼が返事をすると、若い女性が上機嫌で執務室に入ってきた。
「陸軍2頭の調教師更新処理、終わりました。あと、こっちはエヴァンくんから。『リフィー』の視力について報告です」
「受け取ろう」
ガーフィールドの陰鬱な声と表情に慣れているのか、女子職員は物怖じする様子もなく「はい!」と封筒を手渡した。
「それにしてもエヴァンくん……頼もしいですね♡ あっという間にひと通りのお仕事覚えちゃったし! 頭良いし…可愛いし!」
女子職員は、浮き立った表情で頬を染めている。彼女は調教師登録のためにエヴァンを尋ねてからというもの、すっかりあの美しい竜科学者に熱をあげていた。
「こーんな優秀な息子さんがいるのに、キャンベル博士も教えてくれないんですものね〜」
そう。ガーフィールドだけだ。
エドガーが亡くなってから判明したことだが、周りの人間は誰も、コレット教授でさえ、彼に息子がいるとは知らなかった。
エドガー本人にどうにもできないことを何度も聞くのも憚られ、ガーフィールドもその後エヴァンについて話題にするのは避けていた。息子とやりとりはあったのか、何か状況は変わったのか。わからないまま、エドガーは火事で亡くなってしまった。万一の時に開けるようにと使用人に託されていた連絡先をガーフィールドが受け取り、エヴァンに訃報を送ったのだ。
ガーフィールドは、エヴァンが書いた報告書に目を通していく。エドガーと過ごした時間は少ないだろうに、その筆跡は父親によく似ていた。
「エヴァン・キャンベル……指導が必要かもしれんな……」
「え?」
ガーフィールドの呟きに、女子職員が目を瞬かせた。彼は、書類を見ながら続ける。
「確かに試験は完璧だった。難癖のひとつもつけられん……だがこれを見ろ。どんな治療ができるか。どうすれば竜の不安を取り除けるか。すべて、竜のための視点だ。
竜の延命判断に必要な情報は、ただ一点。『その竜が食べる人間以上に社会貢献できるか、否か』。厳しい基準を守ることこそが、竜を生かすと教えたはずだがな……」
書かれた内容のひとつひとつは、竜医師としては間違ってはいない。それでも端々にちらつく違和感が——エヴァンの『何か』が人とは違うと示している。
15年も経てば、あるいは。
そう願って、ガーフィールドはエヴァンをアカデミアの竜舎に入れた。今のところ彼は竜管理法をよく理解し、調教師としても、竜医師としても優等生らしい仕事ぶりを見せている。
しかし、エヴァンの中での命の優先順位がどうなっているのか、見定めておく必要がガーフィールドにはあった。咄嗟の判断が必要な状況になってからでは、遅すぎる。
「どんなに心を交わそうと、竜と人を同じように扱うことは許されん。ここが、人のための法が敷かれた国である限り……」
彼自身に言い聞かせるように、ガーフィールドは言葉を続けた。
「あくまで人のため竜を扱うことが、我々、竜管理局の使命なのだ」
必要ならば、アカデミアをまたエヴァンから奪わねばならない。たとえ、友人の息子を傷つける結果になろうとも。それが、竜管理官であるガーフィールドに課せられた務めだった。