3 食事
倉庫のように大きい、竜舎を見上げる。まだ完全に日が落ちる時間では無いが空には暗雲が垂れ込め、あたりは夜のように暗い。これが人生最後に見る空か、と囚人は自嘲し、警官に連れられて竜舎へと足を踏み入れた。
内部に入るとまず、何よりも先に鉄格子が目についた。冷たく黒い格子が、奥行き50mはある広い空間をあちらとこちらに隔てている。その向こう側に、巨大な竜が、こちらをじっと見下ろしていた。
砂色の鱗に覆われた
竜は、鉄格子に向かい四つ足で立っている。部屋に入ってきた小さな人間たちを一瞥しただけで、その怪物は動きも唸りもしなかった。静かすぎる。囚人は意外に思ったが、そもそも何の期待も覚悟もしていなかったと思い直す。痛みは無いと聞いている。それだけで充分だ。
「お待ちしていました」
カツリ、と靴音が響く。鉄格子のこちら側、ひとりの青年が囚人を迎えた。二十歳を過ぎたかどうか、という若い紳士だ。華奢な体と、細いリボンでひとつに結ばれた銀髪から受ける儚げな印象とは裏腹に、凛とした声は落ち着き払っている。
「本日、貴方の捕食を執り行います、エヴァン・キャンベルといいます。どうぞお掛けください」
品の良い微笑みと共に、エヴァンはコンクリートの床に置かれたテーブルと椅子を指した。
「それではまず、事前に同意を頂いている事項について確認させていただきます」
エヴァンは囚人の正面に着席し、資料を開きながら言った。巨大な竜から見下ろされたまま、テーブルを挟んで檻と反対側には2人の警官が並んで立っている。
手元にあるのは囚人の写真——40歳前後、中肉中背で頬骨の目立つ短い髭の男——と、サインが書かれた竜管理局の文書の類だ。
「ホープさん。貴方は現在拘禁中ですが、今後、恩赦等による釈放の可能性もあります。その上で、特に被食をご希望ということでお間違いありませんね」
「……署名した通りだ……」
「ありがとうございます」
内容は事務的だが、他に音の無い竜舎内で粛々と進められる会話は宗教的な儀式のようだ。しかし今、エヴァンが言葉を捧げる相手は神でも精霊でもなく、竜管理法という決まりごとだ。
「次に、竜について。こちらの『アカデミア』は学術研究用の竜です。彼女が食べる命は竜運用技術の向上という形で社会に還元されます。竜の業種や用途に特にご希望は無いようでしたが、何かご質問は?」
話を聞いているのかいないのか、囚人は「どうでもいい」と頭を振った。
「では」エヴァンは資料を閉じる。
「捕食の説明に移ります」
エヴァンは、手に収まるほどの小さな薬瓶を取り出した。色のついた硝子に守られた中で、透明に見える液体が揺れている。
「こちらは竜の血から作られた、『慈悲の雫』と呼ばれる薬品です。
この薬を飲んだものはぼんやりとした恍惚をおぼえ、痛みを感じなくなります。ただし、意識とは関係なく、身体は引きつり、泣き叫ぶような振る舞いをする……。この作用は、竜特有の『恐怖を食べる』欲求を満たすためのものです。これを飲んだ貴方が、何を言うかはわかりません」
エヴァンは瓶から視線を上げ、話し相手の顔を見た。囚人は黙ったまま、頷きもしない。
「貴方の尊厳を守るため、服用後の捕食には私ひとりが立ち合います。被食者の発言は一切記録されず、また他に教えられることも絶対にありません」
エヴァンは、被食者の言葉が竜舎の外に出ないことを強調した。
痛みを消すこと。
秘密を守ること。
この2つが、被食という原始的な死と、近代国家に求められる人権保障とを奇妙なバランスで共存させている。
そもそも、言葉が通じるとはいえ竜は人間にとって脅威に他ならない。数十年前まで別の生き物だった異民族や罪人、敵兵までもが『人間』だと世界が気付き始めてから、捕食の決まりごとは神経質になる一方であった。
専用の薬品でしか捕食が執行できない以上、被食者がそれを飲むかどうかは捕食管理士の守秘義務にかかっている。極端な話、『すべてを聞かなかったことにする』のがエヴァンの仕事だった。
「たとえば共犯者の名前や今後の犯行計画と思われる場合であっても、私はすべてを秘密にします。それでも私を信じられない、あるいはうわごとでも言いたくないことがある場合は、貴方は薬を飲むのを拒否できます。ここまでご理解いただけましたか?」
「はっ、なるほどな」
ようやく、囚人が口を開いた。先ほどまでのぞんざいな無関心さとはまた違い、その声は冷笑的に響く。
「初対面のあんたを信じなかったら、それでもう痛み止めは無しってか。大層な尊厳があったもんだ」
囚人の言葉を遮るように、警官の片方が咳払いをした。
「進行に協力的な態度を取るように。改めなければ執行を中止し、今後、捕食を希望する権利を剥奪する」
警官の言葉を聞き届けてから、エヴァンは次の手順を進める。囚人の態度の変化にも、全く動じた様子はない。
「痛み止めを拒否した場合、執行の前に一度、動物の捕食を見ていただきます。気持ちが変わる方が多いので……」
そう言って、彼はちらりと後ろに目をやった。竜に比べればごくごく小さな檻の中、幼い顔立ちの仔牛が一頭、大人しく入れられている。
「ああ、そりゃいい。ぜひそうしてくれ」
囚人は小馬鹿にした調子で笑う。そして、手錠のかかった手で仔牛の檻を指差した。
「俺が死んでその畜生が死なねえんじゃ、面白くねえからよ……」
「おいで」
エヴァンによって、仔牛の入った檻が開かれる。不安げな足取りで出てきたそれを、彼は竜のいる鉄格子のあちら側へと導いた。
「いい子だね、ここにいるんだよ」
優しい手つきで仔牛を撫でると、エヴァンは扉を閉めた。残された仔牛は落ち着かない様子で歩き回り、鉄格子で隔たれたエヴァンの方を縋るように見つめている。
その柔らかな背に、大きな影が音もなく迫る。鉤爪のついた大きな前脚が、仔牛を掴んだ。あっ、と若い警官が息を飲んだ。
潰れたような声とともに、仔牛は地面に倒れ込む。何が起こったかわからず四肢をばたつかせるが、体を押さえる力は強い。猛禽の足のような形の爪の下で、獲物がモー、モー、と苦しそうな声をあげるのを、人間たちが黙って見守る。わざとらしくゆっくりと迫る牙に哀れな声がいっそう高くなり——、消えた。
あっけない捕食だった。
骨の砕かれる音もパキパキと軽く、小さな体はあっという間に大きな喉に飲まれてしまう。あまりにも静かな、ただの食事だった。
「……それでは」
巨大な肉食動物と冷たい鉄格子を背景に、エヴァンは静かに振り向いた。色素の薄い髪と肌が、明るくは無い照明の下でいっそう冷ややかに色を失って見える。
「痛みを消すか、意識を保つか。お決まりですか」
囚人は無言のまま、先ほどまで仔牛が捕まっていた場所に目を向けた。血痕さえも無く、さっきまで生きていたものが消えたあとの静けさだけが漂っている。
「…………い……」
「失礼。よく聴こえませんでした」
ぼそぼそと呟いた囚人に、エヴァンが鋭く聞き返した。
次の瞬間。
「どうでもいいって言ってんだろうが!」
ダンッ!!と、拳でテーブルが強く叩かれた。手枷の鎖がジャリリと音を鳴らす。『慈悲の雫』の入った薬瓶が倒れ、床に転がった。警官が囚人を素早くテーブルに押さえつけ、ガタタッと荒い音が鳴る。
「大人しくしろ!」 警官が叫んだ。「これ以上は刑務所に戻すぞ!!」
「わあぁっ! そうだ、そうだろうよ!」
怒りに任せて、囚人は喚き散らした。先ほどまでの無関心が嘘のように、身を捩り、唾を飛ばして喉から叫びを絞り出す。
「どうせ死ぬんだ! 牢屋に戻ろうが、そこから出ようが! 俺をゴミだと思ってんだろ!? ままごとみてえな情けなんかかけられたってなんだってんだ!!」
怒鳴り声が、広い竜舎に反響する。エヴァンは囚人の態度の変わりようを観察するように視線を向けていた。竜もまた、微動だにしない。
「人殺し!!!!」
エヴァンに向けて、囚人が吐き捨てた。
「人を殺してあんたはご立派な仕事、俺はここで豚のエサだ!! 俺だって好きで殺したんじゃねえ! 好きで死にたいんじゃねえッ!!」
そう叫び終わると、囚人は息を荒くしたまま黙ってしまった。
大きく上下していた肩は、やがて嗚咽に震え始める。啜り泣きに混じり、「ふざけやがって……畜生……」と弱々しい悪態が漏れ聞こえてきた。
「……ホープさん」
やがて、エヴァンがゆっくりと口を開いた。
「貴方がどんな罪を犯し、身体の自由や生命を奪われるとしても。法に定められた以上の権利は何者にも侵せません」
落ち着いた声で囚人に語りかけながら、彼は屈んで床の薬瓶を手に取った。ハンカチで丁寧に表面を拭うと、それを再び囚人に差し出す。囚人が顔を上げた。
「貴方には選ぶ権利がある。どうかそれを手放さないでください。貴方の意思で選択する自由を、私が守ります。」
その声は静かではあったが、誠実さに満ちた言葉だった。囚人が、目を見開いてエヴァンの顔を見つめる。
「もう一度お聞きします。貴方に、この薬は必要ですか」
「…………」
透き通る金色の瞳が、まっすぐに囚人を見ていた。囚人は身じろぎもしないまま、呼吸も忘れたかのように黙っていた。
長い、沈黙のあと。
「……まだ、……まだ俺に、慈悲をくれるってか」
囚人が、掠れた声で言った。希望とも安堵ともつかない表情を浮かべている。エヴァンはただ、静かに首肯した。
「……飲むよ。…………痛いのはごめんだ……」
囚人の目から涙が溢れ出る。瓶を受け取る手は、かすかに震えていた。
「服用を確認しました」
もとの事務的な調子で、エヴァンが告げた。テーブルの上には、空になった小瓶が置かれている。
「これより先の発言は一切記録されません。退出をお願いします」
警官たちはエヴァンに対して頷き、素早く竜舎の外に出る。重い扉が閉まると、エヴァンが内側から錠をかけた。竜舎の中に、再び静寂が訪れる。
鉄格子の扉の前に立った囚人は、手枷の嵌った自分の手をじっと見下ろしていた。エヴァンはテーブルの前に立ち、懐中時計を眺めて時刻を確認している。
「……なあ、あんた」
ややあって、囚人がエヴァンに声をかけた。
「俺が何を言っても聞かないでくれるか?」
「ええ。捕食管理士には守秘義務があります」
「いや……秘密とかじゃないんだがよ」
囚人は言い淀みながらも、言葉を続けた。
「俺は口が悪りぃから、何を言うか……。さんざん人を傷つけておいて今さらだが、最期くらい、あんたには汚い言葉を言いたくないってのは……虫が良すぎるか……?」
「……」
エヴァンはしばらく何も言わなかったが、やがて、パチン、と懐中時計を閉じてポケットにしまった。
「大丈夫ですよ」
かわりに手に取った空瓶を眺めながら、彼は微笑む。
「『慈悲の雫』は飲み薬ですから——」
「——————効く前に吐ける」
小瓶が無造作に放り投げられる。それが床に落ちるより前に、囚人の視界が大きく揺れた。
「ギャアッ!!!」と鳴いたのは、
竜舎の外。大きな扉を背後に並んで立った2人の警官がガァガァと騒ぐ鳥たちを見上げた。
「あの……何か聞こえません?」
「やめろやめろ、痛みはないんだとよ」
若い警官の疑問に、年配の警官が答えた。
「いちいち想像してたらもたんぞ。せっかく俺たちは見なくて済む決まりなんだから」
「そう……ですね……」
若い警官はいまひとつ釈然としない様子だったが、扉の中からは何も聴こえない。
「俺たちの仕事はここで待つことだ。あとは学者先生に任せれば間違いは無いさ」
年配の警官は、そう言ってまた扉に背を向けた。
「クソ野郎!!!!!!!!」
檻の中、竜の鉤爪でうつ伏せに地面に押さえつけられた囚人が怒鳴り散らした。
「騙したな畜生!! 許さねえッ! 地獄に堕ちろ!」
地面に打ちつけた鼻と口から赤い血がだらだらと流れ、欠けてしまった歯が覗く。肋が軋み、ごほ、ゴホッ、と嫌な咳が出た。
血と共に吐かれた悪態もどこ吹く風といった様子で、品よく立ったままの青年は顎に手を当てて小首を傾げた。
「地獄? なぜ私が? ああ……もしかして貴方……」
世間話でもするような雰囲気から、一転。青年は、凍るような冷ややかさで囁いた。
「そういう形の公正な報いがあると信じているんですか? だから殺した程度で捕まって、捕まった程度で絶望するんですね。真面目な方は、可愛らしくて好きですよ?」
憐れみ。嘲り。それらが混じった笑みが、彼の顔に浮かんでいた。毒のように甘い声には嗜虐的な悦びが滲み、獲物を前にして金の瞳に冷たい欲がきらめいている。囚人は、身体じゅうに怒りと恐怖が駆け巡るのを感じて身を震わせた。
そこに青年の、冷え切った声が降ってきた。
「ただ……、貴方の態度はレディに対して失礼です」
「………………は?」
レディ。淑女。なぜ今その話なのかわからない。
死や痛み、それらとは別に、得体の知れぬものへの恐怖を感じるその間にも、体を掴む力はぎちぎちと強くなる。
「なんだ」 いったい、なんの話だ。
「おい」 何を話している。
「やめろ、」「やめ」
俺は、『何』と、話している?
「謝罪の機会を与えましょう」
銀の髪を持つ青年が、朗々とした声で言った。
「貴方が『誰』のエサなのか」
ショーの演目を告げるように、彼は続ける。
「上手に言えたら——……」
囚人の喚き声は、もはや意味を成していない。
「————『頭から』にしてあげますよ」
それが、最後の慈悲だった。
ガシャン、と鍵が開く。警官たちが振り向いた。
「滞りなく終わりました。ご協力に感謝します」
扉を開けたエヴァン・キャンベルが、先ほどと変わらぬ落ち着いた態度でそこに立っていた。
「こちらは『残り』です。ご確認ください」
彼が差し出したのは、囚人が身につけていた手枷だ。鍵のかかったままのそれを、警官たちが受け取る。
「あのっ、大変なお仕事を……お疲れ様です」
若い警官が、緊張気味に声をかけた。エヴァンは軽く頷いてそれに応える。
「ありがとうございます。でも、特別なことはしていませんよ。彼女にとっては普通の食事ですし……」
竜舎の中に視線を向ける。そこにいる生き物は、一頭の竜だけだ。
「それに、私の仕事はこれからです。いただいた命のぶん社会をより良くしていくことが、竜科学者の仕事ですから」
そう言って、青年は穏やかに微笑んだ。
竜舎の中では、アカデミアが自分の爪を丹念に舐めている。被食者の血肉と恐怖、そして言葉は、文字通りもはや跡形も無い。
全ては竜舎の中で起こり、竜の胃の中に収まったあとだった。