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2 生態

「先生! 先生の竜科学の講義、今回だけって本当ですか?!」

 講義の終わった教室内。残った学生たちが、教壇の前に集まって何やら話をしている。

 先生。そう呼ばれたエヴァン・キャンベルは、学生の勢いに少しきょとんとして「はい」と頷いた。

 細身で、すらりとした立ち姿の青年である。ひとつに結ばれた銀の髪は、近くで見れば根元が丁寧に編み込まれていた。首元のタイは上品な淡い色で、柔らかな蝶結びにされている。人形めいて整った顔立ちも、表情が幼いと可愛いらしい印象が先立った。

「私は教員ではありませんので…」

 エヴァンの答えに、学生たちは「えーっ」と声を上げる。講義が終わり、こちらもくだけた調子だ。

「他で講演とかしてないんですか?」

「今のところは、ここの皆さんと女子クラスだけですね。今回はコレット教授のお手伝いです」

 エヴァンからの視線を受けて、横に立っている教授が上機嫌でうんうんと頷いた。丸眼鏡にゆたかな白髭の、小柄な老人である。

「竜は特殊な分野だからね。せっかくだから、専門のエヴァンくんにお願いしたんだよ」

 興味が尽きない様子の学生たちに、コレット教授は説明を加えた。

「特殊な点は挙げればキリが無いけれど、なんいっても個体ごとに形が異なるのが特徴だね。四肢の親から六肢の子供が生まれることも珍しくない。竜の足の数というのは、分類というより単に見た目の説明なんだよ」

 学生たちは、改めて黒板に貼られた図のそれぞれに目をやった。竜と言われて思い浮かべる姿から、鳥、蛇、海獣に似たものまで、その姿は実に多様である。生き物が殖えるとき、その姿かたちは親から子へと受け継がれるはずだ。竜たちがどんな理屈でてんでばらばらの姿をしているのかと、学生たちは首を傾げた。

「親の姿よりも、卵が過ごした土地の神話に影響を受けるんです。東洋では、唐代に持ち込まれた西洋竜の卵から、すぐに現地で思い描かれる姿の竜が生まれたそうですよ」

 エヴァンは追加の資料を学生のひとりに手渡す。その絵図では、鹿の角と蛇の鱗を持った長い竜が、東洋風の祭壇の上に座していた。神官らしい人間たちが、その前に恭しく仕えている。

「講義でも説明した通り、竜は血肉に加えて『恐怖』を食べますから。豊かな感情と言葉を持ち、恐怖を物語として共有する生物……つまり人間に、効率的に恐れられる姿をとるのでしょう。

 このように、人間を食べるのに特化したものが『竜』と定義されています。ですから、古生物の恐竜とは別物ですね」

 学生たちは、巨大な恐竜たちが闊歩する中生代を思い浮かべた。現在、人類の起源については未だ詳しくわかっていないが、言葉と文明を持つという意味での人間が現れるのはずっとあとの話だろう。確かに、恐竜とは関わりを持ちそうにない。

「でも、今の定義に落ち着いたのも最近の話でね」とコレット教授が付け加えた。70年ほど前、竜と似た化石が古い爬虫類のものとされた時には大論争が巻き起こったという。すったもんだの末、それは『恐竜』と名付けられ、竜から区別されたのだ。

「竜と恐竜をなにかが結びつけるとしたら、それは彼らの血ではなく人間の恐怖でしょうね。強大な捕食者に脅かされた祖先の記憶。それが言語や想像力と共に神話として芽吹き、文明に寄生する『何か』に竜の姿を与えた……とも言えますから」

「こんな感じで人間との関わりが強いから、他の動物の研究とは視点が違うんだよね」

 話をまとめるように、コレット教授が言った。確かに、竜を語るために人間の文化にまでも話が及ぶのは特殊に違いない。「でも、大きくていいよねえ」と続いた言葉は、単に魅力的という話らしかった。

「竜のことって、どこで勉強できるんですか?」

「残念ながら、科目として学べる場は整っていません。学ぼうとすれば、まずは竜を所有する軍や会社に入って、業務として訓練を受けることになりますね。私も、父の竜を継ぐ前には造船会社で建設向けの竜の扱いを学んでいました」

「そうかあ……。じゃあ、先生の竜も見れませんよね? 関係者以外は竜と話すのもダメって聞きますし……」

「見るぶんには構いませんよ。私の『アカデミア』は、発話器が無いので制限がゆるいんです」

 特別な竜の名を呼ぶエヴァンの声は優しい。肩を落としていた学生たちの顔が、ぱっと明るくなった。「ほんとですか?!」「そうだ、その器官について質問ですが…」

 質問はとどまることを知らない。結局、エヴァンが解放されたのは予定していた時間を大幅に過ぎた頃だった。




 大学の広い中庭を、小柄な老人とすらりとした青年が並んで歩いていく。木々の新緑は明るく、心地よい木漏れ日が地面に揺れていた。

「いやあ、大人気だったね」

「はい、興味を持ってもらえました。お手伝いできて光栄です」

 そう言って、エヴァンは愛想よく笑ってみせる。初夏の光に、銀の髪がふわりと透ける様子が涼やかだ。

 コレット教授は、この若者をすっかり気に入ってしまっていた。優秀で穏やか、礼儀正しく、なんといっても学者仲間のエドガー・キャンベル博士の一人息子である。

 会社のあるナントで父親の訃報を受け取ったエヴァンは、その週のうちに仕事を辞めて荷物をまとめ、ノルマンディーのル・アーヴルから大西洋を渡ってきたという。それでも、ボストンに着いた時には埋葬からすっかり日にちが経っていた。エヴァンに墓地を教えようとして「死人の話は後にしてください」と返された時の管理官の顔を、教授は今でも思い出せる。

 しかし、今思えばあの時は生きているアカデミアの進退がかかっていた。生物学者であるコレットも、竜の貴重さはよくよく知っている。

「君が渡米してきてもう3ヶ月か。もう慣れた? こちらで友達はできたかね」

「はい。『リフィー』と『インディペンデンス』の検診をしました」

 コレット教授の脳裏に、彼もよく知る竜たちの巨体が思い浮かんだ。ボストン・ハーバーの荷役や曳航、力仕事に大活躍の2頭である。「いや、人間の友達は?」と言いかけたが、エヴァンは当然のようにいい笑顔だ。水を指すこともあるまい、そう思った教授は話題を変えた。「ええと、他に変わったことは?」

「捕食管理資格の申請が通りました」

 エヴァンの言葉を聞いて、教授の顔色がさっと不安に翳った。

 捕食。

 肉食動物が、獲物を捕らえて食べること。血肉を食物とするものにとっては当然の営みだが、竜の話をするならば、特に人間の捕食を指していう専門用語だった。

「……前回は、ガーフィールドさんに調達と立ち会いをお願いしたんだよね?」

「あの時は、この国に来たばかりでしたから」

 コレット教授は、大柄で黒髪のガーフィールド管理官の姿を思い浮かべる。竜管理官。合衆国竜管理法に則り、死刑囚など竜の食物となる人間を手配する役人。死の専門家が他にいるというのに、エヴァンは何かを急いているようだった。

「捕食を毎回管理局に任せる調教師も多いと聞いたけど……」

「アカデミアは特殊な竜です。できるだけ僕が世話をしたい。今度からは僕が彼女に人間を与えます」

 エヴァンは、迷いなく言い切った。穏やかな日差しには不釣り合いな、強い視線が教授に向けられる。確かに、発話器の無いアカデミアの声を聞けるのはエヴァンだけだ。父親同様、彼が捕食の立ち会いをするのが1番効率がいいことは間違いない。

 温かな食卓で、家畜の屠殺が話題にのぼらないように。英雄の凱旋に、人々が悲鳴と屍臭を思い浮かべないように。現実と地続きだがまるで生々しくはなかったものに、彼は自ら触れようとしていた。

「そうか、うむ……。ごめんね、おめでとうと言っていいものかわからなくて……」

 教授は視線を泳がせ、独り言のように小さく呟いた。

「……こう言っては専門家に失礼なのは百も承知だがね。エディくんが幼い君とアカデミアを離した理由がわかる気がするよ……」

「そんな顔をしないでください。自分で決めたことですから」

 教授の心配をなだめるように、表情を緩めたエヴァンが言う。教授は何度か頷きながら、ようやくエヴァンと視線を合わせた。

「そうか……うん。エヴァンくん。君と一度食事でも、と思っていたけれど……」

「はい、申し訳ありません。竜の捕食に携わる者として、人と食卓を囲むことはできません」

 それは、竜に人を喰わせる竜使いに伝わる古い慣習だった。竜管理法の上では明文化されていないものの、キャンベル博士と長い時間を過ごしたコレット教授はその慣わしをよく知っている。

 エヴァンはふと、わずかばかり目を伏せた。金の瞳を飾る長いまつげが、頬にあえかな影を落とす。

「……父も、一度も僕と食事を共にしませんでした」

「エヴァンくん……」

 父親と離れたのが15年前、まだほんの子供だっただろうエヴァンにはわずかな団欒の記憶すら無いだろう。どのような経緯で彼が竜科学者としてここにいるのか、コレット教授は知らなかった。

 急に青年が儚く見えて、教授は思わず「ちゃんとごはん食べるんだよ」と念を押す。もとの朗らかな表情に戻ったエヴァンから返ってきたのは、「任せてください」とどこかやる気のずれた返事だった。