2 生態
「先生! 先生の竜科学の講義、今回だけって本当ですか?!」
先生。そう呼ばれたエヴァン・キャンベルは、学生の勢いに少しきょとんとして「はい」と頷いた。
細身で、すらりとした立ち姿の青年である。ひとつに結ばれた銀の髪は、近くで見れば根元が丁寧に編み込まれていた。首元のタイは上品な淡い色で、柔らかな蝶結びにされている。人形めいて整った顔立ちも、表情が幼いと可愛いらしい印象が先立った。「私は教員ではありませんので…」
「他で講演とかしてないんですか?」
エヴァンからの視線を受けて、横に立っている教授が上機嫌でうんうんと頷いた。丸眼鏡にゆたかな白髭の、小柄な老人である。
興味が尽きない様子の学生たちに、コレット教授は説明を加えた。
学生たちは、改めて黒板に貼られた図のそれぞれに目をやった。竜と言われて思い浮かべる姿から、鳥、蛇、海獣に似たものまで、その姿は実に多様である。生き物が殖えるとき、その姿かたちは親から子へと受け継がれるはずだ。竜たちがどんな理屈でてんでばらばらの姿をしているのかと、学生たちは首を傾げた。
「親の姿よりも、卵が過ごした土地の神話に影響を受けるんです。東洋では、唐代に持ち込まれた西洋竜の卵から、すぐに現地で思い描かれる姿の竜が生まれたそうですよ」
エヴァンは追加の資料を学生のひとりに手渡す。その絵図では、鹿の角と蛇の鱗を持った長い竜が、東洋風の祭壇の上に座していた。神官らしい人間たちが、その前に恭しく仕えている。
「講義でも説明した通り、竜は血肉に加えて『恐怖』を食べますから。豊かな感情と言葉を持ち、恐怖を物語として共有する生物……つまり人間に、効率的に恐れられる姿をとるのでしょう。
このように、人間を食べるのに特化したものが『竜』と定義されています。ですから、古生物の恐竜とは別物ですね」
学生たちは、巨大な恐竜たちが闊歩する中生代を思い浮かべた。現在、人類の起源については未だ詳しくわかっていないが、言葉と文明を持つという意味での人間が現れるのはずっとあとの話だろう。確かに、恐竜とは関わりを持ちそうにない。
「でも、今の定義に落ち着いたのも最近の話でね」とコレット教授が付け加えた。70年ほど前、竜と似た化石が古い爬虫類のものとされた時には大論争が巻き起こったという。すったもんだの末、それは『恐竜』と名付けられ、竜から区別されたのだ。
「こんな感じで人間との関わりが強いから、他の動物の研究とは視点が違うんだよね」
話をまとめるように、コレット教授が言った。確かに、竜を語るために人間の文化にまでも話が及ぶのは特殊に違いない。「でも、大きくていいよねえ」と続いた言葉は、単に魅力的という話らしかった。
「残念ながら、科目として学べる場は整っていません。学ぼうとすれば、まずは竜を所有する軍や会社に入って、業務として訓練を受けることになりますね。私も、父の竜を継ぐ前には造船会社で建設向けの竜の扱いを学んでいました」
「見るぶんには構いませんよ。私の『アカデミア』は、発話器が無いので制限がゆるいんです」
特別な竜の名を呼ぶエヴァンの声は優しい。肩を落としていた学生たちの顔が、ぱっと明るくなった。「ほんとですか?!」「そうだ、その器官について質問ですが…」
質問はとどまることを知らない。結局、エヴァンが解放されたのは予定していた時間を大幅に過ぎた頃だった。
大学の広い中庭を、小柄な老人とすらりとした青年が並んで歩いていく。木々の新緑は明るく、心地よい木漏れ日が地面に揺れていた。
「いやあ、大人気だったね」
「はい、興味を持ってもらえました。お手伝いできて光栄です」
そう言って、エヴァンは愛想よく笑ってみせる。初夏の光に、銀の髪がふわりと透ける様子が涼やかだ。
コレット教授は、この若者をすっかり気に入ってしまっていた。優秀で穏やか、礼儀正しく、なんといっても学者仲間のエドガー・キャンベル博士の一人息子である。しかし、今思えばあの時は生きているアカデミアの進退がかかっていた。生物学者であるコレットも、竜の貴重さはよくよく知っている。
「はい。『リフィー』と『インディペンデンス』の検診をしました」
コレット教授の脳裏に、彼もよく知る竜たちの巨体が思い浮かんだ。ボストン・ハーバーの荷役や曳航、力仕事に大活躍の2頭である。「いや、人間の友達は?」と言いかけたが、エヴァンは当然のようにいい笑顔だ。水を指すこともあるまい、そう思った教授は話題を変えた。「ええと、他に変わったことは?」
「捕食管理資格の申請が通りました」
エヴァンの言葉を聞いて、教授の顔色がさっと不安に翳った。
捕食。
「……前回は、ガーフィールドさんに調達と立ち会いをお願いしたんだよね?」
「あの時は、この国に来たばかりでしたから」
コレット教授は、大柄で黒髪のガーフィールド管理官の姿を思い浮かべる。竜管理官。合衆国竜管理法に則り、死刑囚など竜の食物となる人間を手配する役人。死の専門家が他にいるというのに、エヴァンは何かを急いているようだった。
「捕食を毎回管理局に任せる調教師も多いと聞いたけど……」
エヴァンは、迷いなく言い切った。穏やかな日差しには不釣り合いな、強い視線が教授に向けられる。確かに、発話器の無いアカデミアの声を聞けるのはエヴァンだけだ。父親同様、彼が捕食の立ち会いをするのが1番効率がいいことは間違いない。
温かな食卓で、家畜の屠殺が話題にのぼらないように。英雄の凱旋に、人々が悲鳴と屍臭を思い浮かべないように。現実と地続きだがまるで生々しくはなかったものに、彼は自ら触れようとしていた。
教授は視線を泳がせ、独り言のように小さく呟いた。
「……こう言っては専門家に失礼なのは百も承知だがね。エディくんが幼い君とアカデミアを離した理由がわかる気がするよ……」
教授の心配をなだめるように、表情を緩めたエヴァンが言う。教授は何度か頷きながら、ようやくエヴァンと視線を合わせた。
「はい、申し訳ありません。竜の捕食に携わる者として、人と食卓を囲むことはできません」
エヴァンはふと、わずかばかり目を伏せた。金の瞳を飾る長いまつげが、頬にあえかな影を落とす。
「……父も、一度も僕と食事を共にしませんでした」
「エヴァンくん……」
父親と離れたのが15年前、まだほんの子供だっただろうエヴァンにはわずかな団欒の記憶すら無いだろう。どのような経緯で彼が竜科学者としてここにいるのか、コレット教授は知らなかった。急に青年が儚く見えて、教授は思わず「ちゃんとごはん食べるんだよ」と念を押す。もとの朗らかな表情に戻ったエヴァンから返ってきたのは、「任せてください」とどこかやる気のずれた返事だった。