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1 竜の名前

——3ヶ月前。

1890年 アメリカ合衆国
マサチューセッツ州ボストン郊外。

 雪に覆われた広い敷地を、黒髪の男が研究所に向かい横切っていく。年の頃は50代半ば。背筋の伸びた長身の紳士だが、帽子の下の陰鬱な表情はいかにも不健康そうに見えた。

「ガーフィールドさん!」

 男が屋敷の前で懐から鍵を取り出すと、後ろから声をかけられた。

 声の主は、小柄な老人。丸眼鏡に豊かな白ひげが、見るからに学者という印象だ。老人は歩幅の違うガーフィールドにやっとのことで追いつくと、心配そうな小声で尋ねた。

「本当に大丈夫なのかね?」

「何がです……」

 ガーフィールドは低く聞き返した。暗く凄みのある声に老人は少しばかり怯んだものの、すぐに「あの若者だよ!」と答え、ちらりと後ろに目をやった。

 2人の後ろ、遅れてついてきているのは細身の青年だ。華奢な体にケープ付きの外套を纏い、男にしては長い銀髪を細いリボンでまとめている。彼は少し離れた場所から竜舎を見上げ、鍵が開くのを待っていた。

 老人は、彼を研究所に入れることの是非を気にしているらしい。 

「15年も離れていた息子なんて誰でもなりすませる。エディくんが遺した資料は宝の山だ。もし悪い人だったら——」

「しかしですね、教授……」

 ガーフィールドは溜息と共に説明し始めた。

「我々、管理局もアレにはお手上げなんですよ。先天的な問題で、人間を食べても言葉を聞くだけ。話す口を持たない。キャンベル博士は特殊な方法で意思疎通ができたようですが……博士が亡くなった今、誰にも使えない竜だ」

 ガーフィールドは、研究所の住居部分に隣接する竜舎を見上げた。倉庫か工場を思わせる巨大な建物で、木材の柱の間を煉瓦の壁が埋めている。鉄枠の窓と扉は、今はすべて閉ざされていた。

 まだ何か言いたげな老人をよそに、ガーフィールドは鍵を回した。

「扱える後継者がいるなら詐欺師でも構いません。私としても、博士の研究に長年寄与してきた個体を処分するのは偲びない……キャンベルさん! 開きましたよ!」

 呼びかけられた青年は、無言のまま金の瞳をガーフィールドに向ける。血の気の感じられない唇から、白い息が微かに吐き出された。


 ガーフィールドの先導で、老人と青年が竜舎に入る。室内は外と同様に寒く、皆、外套を身につけたままだ。市街地からそれなりに離れているにも関わらず電気が通っており、高い天井から下げられた照明が建物内部を照らしていた。

 3階建ての高さがある室内は、全て吹き抜けになっている。間隔15cmほどの鉄格子が、広大な空間をざっくりと2つに区切っていた。3人が入ったこちら側は、建物の幅が30mはあるのに対し奥行きが5mほどと横に長い。人の背丈ほどの間仕切りと共に簡素なテーブルや椅子が置かれている。しかし、コンクリートの床は冷え冷えとして殺風景なものだった。

 そして、檻のあちら側。床は突き固められた土で、奥行きが50mはありそうな空間が広がっている。

「見てください」

 ガーフィールドに促され、青年はこの部屋の主を見た。

「『アカデミア』号。お父上の竜です」

 鼻の頭から尾の先まで、13、4mはあろうかという、竜である。

 今は奥の方を向いてじっと伏せているが、砂色の鱗に覆われた固い皮膚が呼吸に合わせ微かに上下している。生きているのだ。前肢から背中へと、蝙蝠こうもりのような翼膜がなめらかに続いている。今は折り畳まれているが、全て広げれば全長以上に大きい翼だろう。体に比べれば小さく見える短い2本の角が、蜥蜴とかげを大きくしただけの生き物ではないことを主張していた。

 齢400歳を超える雌。翼と一体になった前肢、鳥のような力強い後肢と合わせて足は4本。一般に飛竜とも呼ばれる西洋型だ。お飾りの翼を持つ竜も多い中、彼女は実際に飛ぶ能力を持っている。それが、竜管理局に登録された『アカデミア』号の情報だった。

「牛や豚も食べずにずっとあの調子です。博士の死は聞かせていないんですがね……。このままでは、じきに言葉を聞く力も失われる」

 ガーフィールドは説明しながら、横にいる青年を見た。彼は鉄格子越しにじっと竜を見つめ、目を離さないままで呟く。

「……ここを開けてください。これでは声が届かない」

「無茶だ、危険すぎる」老人が、ぎょっとして飛び上がった。「腹を空かせているんだよ!」

 老人の様子など意にも介さず、青年は、有無を言わせない強さで繰り返した。

「開けてください」


 常ならば、調教師も発話器も無い状態の竜に人を近づけることなどありえない。規則と安全を何よりも重視するガーフィールド管理官ならばなおのことだ。それでもこの時は、青年と言葉を交すことだけが、アカデミアが殺処分を免れる唯一の方法だった。

 ガシャン、と金属の音がして、人間が通れる大きさの格子戸が開けられる。青年が躊躇なく檻の中に踏み入る様子を、ガーフィールドと老人が見守った。

「アカデミア」

 青年がそっと、竜の名を呼んだ。金の瞳が静かに開かれ、縦に長い瞳孔がきゅっと収縮して青年を捉える。竜はゆっくり頭をもたげ、翼と一体になった鉤爪を地についてその身を起こした。肉食恐竜のような顔つきの頭がこちらを向く。口は、開けば人間をそのまま飲み込める大きさがあるだろう。

 青年は一歩、また一歩、ゆっくりとアカデミアに近づいていく。 

「僕だよ、エヴァンだ。父さんがいなくなって寂しかったね……もう、大丈夫だよ」

 大切な家族に、優しく語りかけるように。愛おしさの滲む声色で、青年は呼びかける。その相手は固い鱗に覆われた巨大な肉食動物だ。竜は息も足音も、その巨躯に似合わないほどひっそりとひそめ、静かに青年に近づいた。瞳が、じっと、こちらを見つめる。

「おいで、アカデミア」

 青年は両手を広げ、彼女に向かって差し出した。ガーフィールドは開いた扉の手前で彼らの様子を見ながら、老人を守るように立っている。

 『アカデミア』は、ゆっくりと頭を下げた。青年の手が、竜の鼻先に触れる。

 あまりの近さに、老人が思わず息を呑んだ。


 そして。


「クゥーーーーールルルル……」と、甘えた音がした。

 『アカデミア』が、鼻先を青年の小さな手に擦り付けていた。まるで、主人を見つけた飼い犬のように。青年は竜の巨大な顔に手を伸ばし、優しく鱗を撫でてやる。彼女は目を細め、親しげに青年に顔を押し付けた。

 老人から、安堵と感嘆の溜息が漏れる。ガーフィールドは、竜と青年を黙って見守るだけだ。

「待たせてごめんね。……うん。僕もだよ……」

青年は、竜の顔に自分の額をくっつけた。竜は応えるように、ふんふんと鼻を鳴らした。

 寂しかった。
 ずっと会いたかった。


 そんな言葉が聴こえてきそうな1人と1頭。彼らに水を差すわけにもいかず、ガーフィールドは老人だけに聞こえる程度の声で、「言葉は通じるようですな」と呟いた。

 

 数日の後、『アカデミア』号の所有者兼調教師として、若干23歳の青年が登録される。


 彼の名はエヴァン・キャンベル。

 職業は、竜科学者である。