プロローグ
「竜は、もともとは想像上の生物でした」
静かな教室に、凛とした声が響く。詩のように語られる言葉に、二十余名の学生は息を潜めて耳を傾けた。
「彼らが人間の前に姿を現したのは6世紀頃のヨーロッパと言われています。地獄の門が口を開け、恐ろしい怪物が人の世に放たれた……これはあくまで一説に過ぎません。想像上の竜は紀元前から世界各地の神話・伝承に登場し、実在した竜の記録とは判別が困難です。生物としての『竜』が、いつどのように、肉体を持って現れたのか? その正確な答えを知る術はありません」
講師の背後の黒板には、様々な姿の怪物の図が貼られていた。蛇のようなもの、足を持つもの、翼を持つもの。おおまかな時代の流れに沿って並べられたそのどれもが、一様に人を飲み込めるほどの巨体を持っている。
講師は、金の瞳で教室を見渡した。
細身の青年である。背丈こそすらりと高いものの、肩の薄さは子供のようだ。白い肌に、整った繊細な顔立ち。柔らかそうな銀の髪は長く伸ばされ、細いリボンで結ばれている。紳士の装いでなければ、少女と言っても通るだろう。
しかし、落ち着き払った態度と鋭い視線は幼さとは程遠い。ともすれば自分とそう歳の変わらぬ大学生たちの前で、彼は手元の本も開かずに淀みなく話を続けた。
「確かに言えるのは、人を食べる怪物が恐れられていたこと……そして彼らが、人の言葉を理解することです。彼らは人間を食べることで一定期間、言葉を理解し、意思疎通が可能になります。この特徴を利用して、人間は中世後期から竜の調教に成功しました。
訓練された竜の言語能力と社会性は人間の子供6〜8歳程度。個人を判別し、簡単な指示を理解します。戦争。輸送。処刑。強大で威厳ある姿は各国の権力者に好まれ、19世紀の今日に至るまで、彼らは社会の中で様々な役割を担ってきました」
講師の言葉通り、時代とともに竜たちの描かれ方は変わっている。大昔に描かれたとわかる誇張された絵では、怪物たちは人を飲み込む災害そのものだった。それが、近世の式典や戦場では軍馬のように飾り立てられている。絵柄が緻密で現実的なスケッチ、そして写真に変わる頃には、蒸気ドリルなど機械と共に土木工事にあたっていた。巨大な生き物と共に映り込んだ汽車や電線が、それらの写真がごく最近撮影されたものだと示している。労働者と並んで大人しく記念写真を撮られている様は、まるで大きすぎる犬のようだ。
「竜科学の目的は、彼らを正しく理解することです」
講師は、端的にそう言った。
彼の表情や声色からは、余計なものがすべて削ぎ落とされている。整った数式のような空気を纏った青年は、明白な解を学生たちに示してみせた。
「人間の道具として飼い慣らされてなお、竜の存在は宗教的な善悪と共に語られてきました。しかし本来、生物は神聖でも邪悪でもありません。自然科学の立場から、竜が何者であるかを明らかにする考え方が必要です」
「でも、先生……」
学生の1人が声を上げた。
「人を食べるんですよね?」
教室内がしんとなる。講師は黙って頷き、視線で学生に続きを促した。学生は静けさに戸惑いながらも、言葉を続ける。
「兵器も機械も、竜より便利になりました。それなのに、この先も人を与えて、竜を生かしてまで研究することは現実的なんでしょうか。……それは、人命よりも大切ですか?」
その声に講師への批判の色は無く、ただ純粋に疑問を口にしたという風だった。
今世紀における竜が今や機械で代替可能な労働力であるということは、紹介された写真からも明らかだ。竜科学自体の在り方に関わる質問にどんな答えが返ってくるのかと、学生たちの視線が講師に集まる。
「実際に大切かどうかは答えかねます。優先されるべきものは、状況と立場によって変わるものですから」
講師はあくまで淡々と、事実だけを返す。先ほどまでと変わらない表情からは何も読み取ることができない。
「ただ……」
「知の歓びは、命の重みにも勝る」
その、独り言のようでもある言葉は、間違いなく万人に向けた回答では無かったが。
ほんの一瞬。
恍惚の色を帯びた声は、蠱惑的な説得力を持って、教室の空気を支配した。
「――そう思う者が、竜科学者に向いています」